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諸説 邪馬台国 卑弥呼

(注釈)
魏は、中国の三国時代に華北を 
支配した王朝。首都は洛陽。  
曹氏の王朝であることから曹魏、
あるいは北魏に対して前魏とも。
45年間しか続かなかった王朝だが
成立の基礎を作った曹操の時期の
政権である「曹操政権」と合わせ
て論じられることも多い。   
魏・蜀・呉の戦国史を描いた
三国志などで後世に伝わり、  
日本で魏は 卑弥呼を記述した  
「魏志倭人伝」で知られる。

(注釈)
魏は、中国の三国時代に華北を 
支配した王朝。首都は洛陽。  
曹氏の王朝であることから曹魏、
あるいは北魏に対して前魏とも。
45年間しか続かなかった王朝だが
成立の基礎を作った曹操の時期の
政権である「曹操政権」と合わせ
て論じられることも多い。   
魏・蜀・呉の戦国史を描いた
三国志などで後世に伝わり、  
日本で魏は 卑弥呼を記述した  
「魏志倭人伝」で知られる。

魏志倭人伝の行程解明

魏使はどうして日本に

来てしまうことに

ー魏の役人が倭国を訪問した旅行記が魏志倭人伝にまとめられているー
彼らは倭国の位置は中国紹興市の東にあるものと思い込んでいたことが錯覚を起こした原因の一つ。
もう一つは帯方郡の魏の使いが魏皇帝の下賜品を携えて初めて邪馬台国を訪問するのに、倭国の使者から宮殿までの道筋について生半可な知識は得たものの、具体的な案内人を連れずに来たため道に迷ってしまったこと。伊都国まではやってきたが、その後の行程は話を聞いただけで目的を達成できなかった。この中途半端な旅行記が書かれたため混乱を引き起こしている。

日本の古代史ファンを21世紀になった今でも騙し続けていることである。彼らがやってきたのは列島には出雲の国、誕生間際の伊都国があるだけの3世紀半ばの時期に相当する。

-魏志倭人伝に従って旅行記の内容を検討してみる-
帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し倭の北岸にある狗邪韓国に到着する。千余里(約70km)で対馬国に到着する。(下線部は原典記載)
狗邪韓国は学会などでは金海と認識されているがそれは誤り。7200里では狗邪韓国に到達できないし、もし接岸していたらもっと具体的な邑の大きさ、住居、生活実態など詳細なものが得られていたはず。彼らは巨済島のずっと西、突山島辺から対馬の浅茅湾目指して進んで行ったと推定する。この時代海面水位が高かったので対馬の中央部(上・下島の中間)を通過できた。

それからまた南に一支国を経由して末盧国に到着する。そこから東南に陸行(*東北)すること40kmほどで、伊都国に到着する。代々王がいるが、かれらは皆女王国に服属している。そこ以降の旅程は伊都国で得た情報で、具体的な距離情報は無く所要日数のみが記される。これから先は、東南(*東北)し奴国に至る。さらに東にある不弥国(北九州)に至りそこからまた南、投馬国に至るのに水行二十日。南を北と置き換えると関門海峡を通って山口県の沖合を北進し出雲の国=投馬国に至る。伊都国の役人は大国「出雲の国」については良く知っていた。邪馬台国に至るのに南、水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところである。

-魏志倭人伝の記述の矛盾点-
正始元年(240年)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた。
その時の伊都国までの旅行見聞記である。帯方郡の魏の使いが邪馬台国を訪問した最初の記事で以降中国の歴史書には多く引用されている。
➀伊都国は帯方郡からの使者が倭と往来するとき常に駐まる所である。
➁女王国の北には一大率を置いて諸国を検察している。一大率は常に伊都国に置かれている。
③洛陽や帯方郡からの使いが倭にきた場合いずれも湾頭で臨検し、文章や贈り物を調べ、女王の元に届けるものがこれと違わないようにした。
 
女王の所に行くのに2ケ月もかかる伊都国に門番のような監査機能を置くこと自体が矛盾している。
この矛盾点がどうしてなのか納得がいかなかったがこの度、次のように解釈することで解けた。


-魏使の錯覚で伊都国を金官伽耶の宮殿と間違えてしまっていた-
金官伽耶は国譲り前は伽耶連合国(倭国)の中心であったが、それ以降は中心が邪馬台国の女王に移り女王の秘書的役割をこなすだけの存在になってしまっていたようだ。


ー卑弥呼に会った後の情報ー
帯方郡の使者が持参してきた土産品を卑弥呼女王に会って直接渡している。魏志倭人伝の伝える内容では
➀ 使者は、魏の小帝の使者という立場で、倭王に謁し詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦 ・刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に上表文をおくり、魏帝の詔と賜物に答礼の謝辞をのべた。
➁ 女王国の東、海を渡ること千余里で、また国々があり、これからもすべて倭種の国である。また侏儒国はその南にあり、人々の身長は三、四尺で、女王国と四千余里離れている。
➂ これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。
卑弥呼に直接会って会話をしていること。女王国東は海でそこを渡った先には同じ倭人の住む国々があること。そして倭人が住んでいる所の様子はその海の中にある島々や列島の上に住みそれらを巡れば5千里にも及ぶとしている。

邪馬台国(倭国)は朝鮮半島最南部にあって狗邪韓国(金海)から近い所に存在するとの上記情報から高霊(大伽耶)ではないかと想定し筆者が作ったのが次の行程である。 
続きは次回
作者に感謝を述べます。諸説色々HPを拝見し優れた内容のものを抜粋させていただいております。

アイキャッチ画像の晋州大平里ブロンズ文化博物館を題材にした晋州旅行記をご拝借しております。ありがとうございます。
https://blog.naver.com/PostView.nhn?isHttpsRedirect=true&blogId=4sproject&logNo=110144987600

光山金氏霊園 広報部


あやまった魏使の

紀行旅程と

邪馬台国への道程

ー正しい帯方郡から邪馬台国への道ー

朝鮮半島の西海岸に沿って南に水行し、珍島から東に進み巨済島を越え北側の湾に入り込んで金海の地に上陸する。ここでは女王の元に行くに必要な手続きも行えるし船を雇って洛東江を遡行することもできる。
帯方郡から珍島経由突山島辺まで約600km(7300里)、そこから対馬に行ってしまったがもう少し東進して巨済島を越えて金海の金官宮殿に行って女王に会う手続きを取る。
距離にして190km(2300里)。
船で洛東江を遡上して高霊の邪馬台国宮殿までは同じように190km(2300里)の距離である。
直線距離を測定し実際の距離として係数1.3倍して算出した。
最初から予定したルートだと総距離980km、12000里 1里は82m相当であるとしたらほぼ魏志倭人伝の通りであった。
日本人が邪馬台国が国内にあると誤解した理由
魏志倭人伝を読みだすと帯方郡から邪馬台国を目指して出発した魏使が最初に到着したのは九州であった。誰が考えても邪馬台国は日本にあったのだと考えるのは自然の成り行きである。
しかし良く読むと九州から船で1ケ月、陸路で1ケ月、合計2ケ月もかかる遠隔の地にあることが書いてある。
筆者の推論では南北を取り違えてこのような結果を招いたが一部の論者のように東西を誤ることがあるだろうか?
太陽の出没をみればそのようなミスは起きるはずはない。長く生活すれば南北の誤りは考えられないが、短期滞在では起こり得るミスではないか。
それと執筆者陳寿の倭国は沖縄の辺にあるべきだとの信念が強く進行方向を南にしてしまった可能性も強い。
魏使の旅行日程は最初に伊都国まで行った記録は各種調査も兼ね生々しく記録されている。

しかし行き先が間違っていたことに気付いた建中校尉梯儁らは引き返して狗邪韓国に戻り高霊の宮殿に下賜品を届け卑弥呼のお礼の言葉を頂いて戻っている。



 この後半の旅行記を敢えて付けなかったために混乱を生じている。
邪馬台国発見は思いがけないきっかけから
魏志倭人伝をきちっと読んで投馬国は出雲国であることは推理できる。

「ここから南、水行十日と陸行一月を経た所に邪馬台国がある・・。」

 ここでまた行き詰った。
金官伽耶のある金海は港だから歩く必要は無い。

たまたま大伽耶のことを調べていて「大伽耶王陵展示館」の展示品を見ていたら第44号墳が殉葬墓で付近を含めると100人近い殉葬者がいたとの説明をみてこれが卑弥呼の墓であるとピンときた。
高霊には主山という山がありその尾根筋には巨大な池山洞古墳群が並んでいる。第44号墳は高さ6m直径27mにも及ぶ大きなものでありこの中に35人の殉葬者が一緒に埋葬されていた。

朝鮮半島でも殉葬墓は珍しいのでこの上に展示館が作られている。
更に状況を調査すると倭人伝の記録とピッタリの上、浦項湾から徒歩で1ケ月の距離とも一致しているではないか。2014年正月の大発見で興奮しました。
池山洞古墳群
高霊郡8ケ村(邑)は村ごとに古墳群と山城を持っている。これらは大伽川流域に広がる平地を望む丘陵の上に立地している。その中で王級クラスの古墳群と見られるのが「池山洞古墳群」である。
標高321mの主山から南に延びる尾根の主稜線上と東南に枝分かれする稜線場や斜面に墓地が営まれている。

 主山の山頂には山城があり山麓の平地には「王宮址」と伝えられている。
ほとんどが円形の墳丘(円墳)を持ちその外周には外護列石がめぐり中心部に墳墓がすえられている。
山腹一帯には直径10m前後の小型墳や墳丘の有無が分からない石槨慕が散在している。
 中腹や低い稜線には10~15m級の中型墳があり高い稜線には直径20mを越える大型墳が並んでいる。
筆者が想定している卑弥呼の第44号墳は丘陵の最低部にあり、壱与と推定される第45号墳もすぐその上に位置している。
従ってその後を継いだ大伽耶の王たちの大型墳墓が上方の大型墳であろうと思われる。

 そして一列に並ぶ第47から51号墳の5基の墓は中国の王朝に朝貢した倭の五王そのものの墓であったと想定できる。
最高部にある40mを越える超大型墳は倭国の最盛期に君臨した「倭王武」の姿と見ている。
 
 池山洞古墳群の上部に見られる大型の円墳
※主山の上部から高霊の町を見下ろす風景が上図である
卑弥呼の墳墓
卑弥呼の墓の内部についていくつかの情報があるのでそれらをまとめる。
卑弥呼の墓と想定する池山洞44号墳の内部(1979年)
墳丘の規模は27.0mの円墳で中央の主墓は竪穴式石室9.4mで西と南にも石室が配置されていた。主室からは馬具、冑、銅盒などの副葬品があったが西・南石室は伽耶土器のみで人骨の埋葬も確認された。

墳丘内部には32基の石槨が二重の円を描くように配列されていて金・銀・銅製の耳飾りが出土している。人骨からの判定では20~30代と若い人たちだった。

3基からは紡錘車が出土されているので女性の殉葬と見られる。
44号墳の上にある45号墳は主石室の3体の埋葬があり主被葬者と2人は殉葬者であった。墳丘内には11基の殉葬石槨があり副葬品が貧しくても金・銀製の耳飾りを持っていたことである。

直径23.5mの円墳であり金銅冠飾、金製耳飾り、三葉文環頭大刀、馬具などが副葬品であった。この墳墓が壱与のであろうと考えている。
邪馬台国論争で大和にある箸墓古墳が卑弥呼の墳墓ではないかと推定している研究者や古代史ファンが多いが私の推定通り伽耶の国に現存していた。

 金海の金官伽耶の近くにあるとの思いは間違いで、大伽耶の国、天照大神発祥の地-伽耶山の麓「高霊」の地にあった。

この近くにある有名な「海印寺」と高霊の地は宗教がからむ深い関係がありそうで今後調査したい。
「魏志倭人伝の卑弥呼の墓は円墳で大きさの径は百余歩、殉葬した奴婢は百余人」と記されている。
 
 直径は27mで1歩=23mで計算すると117歩になり百余歩と一致する。
 
 また殉死者は44号墳の周辺に小さな墳墓が集まっておりこれらも含めると百人近い人が殉死したのではないかと推定できる。
 殉葬墓というのは非常に珍しい存在で韓国でもこれを展示するために大伽耶王陵展示館を卑弥呼の墳墓の上に作って
いる。
 説明で石槨という用語があるがこれは木棺や石棺を覆うための覆いの役割を持つもの、石室とも。

 棺なしで槨に直接葬られている小規模な墓も多数あったようである。

お読みいただきありがとうございます。魏志倭人伝の行程を解明 を研究された方のHPから興味のあるものを抜粋し、歴史ロマンとして掲載させていただきました。研究された方に感謝いたします。

光山金氏霊園 広報部