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朝鮮三国時代

新羅は古代朝鮮半島南東部
統一国家 新羅
光山金氏 始祖 
新羅王子 興光

新羅は古代朝鮮半島南東部
統一国家 新羅
光山金氏 始祖 
新羅王子 興光

新羅 高句麗 百済 加羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新羅(しらぎ/しんら、シルラ、前57年 - 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。[1] 朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。

朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代(さんごくじだい)、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代(とういつしらぎじだい)、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代(ごさんごくじだい)という。ただし1970年代以降の韓国では、渤海を朝鮮民族の歴史に組み込む意図(朝鮮の歴史観)から、統一新羅時代を南北国時代(なんぼくこくじだい)と称しているので注意が必要である。

ー概要ー
『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した(羈縻支配)。その後、唐が吐蕃と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲撃して官員を殺戮し(唐・新羅戦争)朝鮮半島の中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済・後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。

新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。

ー呼称ー
当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」、現代朝鮮語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。

日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。これは元来「新羅城」の意味であり、新羅の主邑を指す用語が国を指す物に変化したのではないかという説がある。

ー金氏の始祖説話ー
金氏始祖とされている金閼智は第13代味鄒(味鄒尼師今)の7世祖であるとされる。脱解の治世に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞こえたので、夜明けになって倭人の瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。報告を受けた脱解が役人に小箱を回収させ開かせると、中から小さな男の子が現れた。容姿が優れていたので脱解は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。後に金氏が新羅王となると、その始祖である閼智にちなんで国号も鶏林とした。[16]


新羅の前身は朝鮮半島

南東部にあった辰韓

ー起源と神話ー
「三韓」および「辰韓」も参照
新羅の前身は朝鮮半島南東部にあった辰韓十二国のうちの1つ、斯蘆国である[2][3]。文献史料からは正確な建国の時期については明確にわからない。『三国史記』「新羅本紀」冒頭の記述に従うと、新羅の建国は前漢孝宣帝の五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと紀元前57年となる[4]。これはいわゆる古代朝鮮の3国(高句麗・百済・新羅)の中で最も早い建国であるが、末松保和らの研究によって後世に造作されたものであることが明らかにされている[5]。初期の時代における『三国史記』「新羅本紀」の記載は伝説的色彩が強いが、韓国の学界においては20世紀半ば頃にはこれを史実とする見解が出され、有効な学説の一つとなっている。20世紀後半以降、この新羅の伝承は紀年の修正はされているものの事実が反映されたものであるとし、建国年を3世紀前半まで引き下げる説などが提出されている。しかし、これらは具体的な論拠を欠き説得力に乏しいと評される[5]。

中国史料では、高句麗、百済、新羅の順に登場する[6]。『三国史記』において高句麗の建国よりも新羅の建国が早く設定されたのは、著者の金富軾が、慶州出身で新羅王家の一族だったためであると考えられる[6]。金富軾は、新羅王家の一族だったが、高麗王家に仕えて、平壌が高麗から独立した反乱を鎮圧して武勲を上げた人物であった[6][註釈 1]。

『三国史記』が伝える建国神話によれば、慶州盆地に6つの村(閼川楊山、突山高墟、觜山珍支、茂山大樹、金山加利、明活山高耶)があり、その六村が卵から生まれた赫居世を王に推戴したのが新羅の始まりであるという[3][8]。

新羅の建国神話は他の朝鮮諸国と比較して特異であり、三姓の王の交代という形をとる。即ち初代赫居世に始まる朴氏、第4代脱解に始まる昔氏、第13代味鄒に始まる金氏(始祖は味鄒より数代前の閼智とされる)である[3][9]。その内容の伝説的色彩が強いことや、実際に新羅で姓が使われ始めるのが6世紀に入ってからである点などから、これらの神話は基本的に史実としては扱われない[9]。しかし三姓がそれぞれに異なる由来を語り、6つの村(後の新羅六部の前身とも考えられる)が関わる独特の建国神話は、新羅王権の成立過程の複雑な様相を反映したものであるかもしれない[10]。

ー朴氏の始祖説話ー
朴氏の初代とされているのは赫居世(赫居世居西干)である。辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越えた頃、彼の出生が神秘的であったことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした[4]。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される[11])に龍(娑蘇夫人)が現れ、その左脇(『三国史記』では右脇)から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので赫居世は彼女(閼英夫人)を王妃に迎えた。人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した[12]。なお、日本側伝承では新羅の祖は鵜葺草葺不合命の子で神武東征に従った稲飯命だとされている。また、『三国遺事』には赫居世と閼英夫人はともに中国から辰韓に渡来した中国の王室の娘娑蘇夫人の子であるとする伝承が伝えられており、『三国史記』敬順王条末尾では編者金富軾が中国の接待官から類似の話を聞いた記録が残されている[13]。また、赫居世の臣下には倭国から来たとされる瓠公がおり、辰韓が属国であると主張する馬韓王に対峙させたという説話がある[14]が、瓠公こそが 赫居世だとする見方もある。

ー昔氏の始祖説話ー
昔氏初代は脱解(第4代脱解尼師今)である。『三国史記』によれば、倭国東北一千里のところにある多婆那国(日本の丹後、但馬)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生んだが、多婆那王は不吉であるとして卵を捨てるように命じた。王妃は捨てるに忍びず、絹の布で卵を包み、宝物と共に箱に入れて海に流した。その後金官国に流れ着いたが、金官国の人々は警戒してこれをとりあげなかった。次いで辰韓の阿珍浦に流れ着き、そこに住んでいた老婆が箱を拾って開けると、中から一人の男の子が出てきたので、育てることにした。男の子は成長するに従い身長九尺にもなり神の如き風格を備えた。姓氏がわからなかったので、ある人が、箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」と名付けるのが良いとした。学問を身に着けた脱解は倭人の宰相であった瓠公の邸宅を見て吉兆の地であると判断し、相手を騙して土地を取り上げた。これが後の新羅の拠点である月城になった。新羅の第2代王南解は脱解が賢者であるのを見て娘(阿孝夫人)を与え、第3代の儒理王は死に際して脱解に後事を託した。こうして脱解が王となった[15]。